itimoのブログ

有資格業。自分の人生の迷走を記録します。

【第22回】森博嗣氏著「勉強の価値」を読んで

前回に引き続き、森博嗣氏の著作です。すっかり、マイブームになってしまいました。それだけ、毎度学びがあるということだと思います。

 

勉強とは、釘打ちみたいなものであり、釘打ちを学ぶことが楽しく感じられる唯一のケースは、作りたいものが目前にある場合である。すなわち、勉強が楽しく感じられる条件とは、「知りたい」が先にあって、そのために勉強をする、この順番の問題である、と。

 

もっとも、大人相手の教室やセミナー等では、特定の人に教えてもらうことになるから、自分の頭で考え、自分で試し、自分で体験するという楽しみを放棄することになってしまう。どうすれば良いのか、という自分の問いに、自分が答える(自問自答)ということをしていくことが重要である、と。

 

この辺りは、第19回「孤独の価値」や第20回『「やりがいのある仕事」という幻想』の内容にも通じるところがあり、すんなり理解することができました。

 

もっとも、自問自答することによって自分なりの考えを持つことは、正解を知ることよりもはるかに価値がある。自分なりの正解を持つことは、それを考えたことでその人の思考力がいっそう高まるから、人生の喜びといって良い、という考え方には、なるほどと思いました。

 

私は、これまでの勉強・受験等をとおして、「正解」についてこだわってきたように思います。しかし、そのようなスタンスは、知らないうちに自分の楽しさの可能性を損ねるおそれがある、と考えるに至りました。今後は、案外、自分が思っている程度よりものびのびと試行錯誤をしてみるくらいで、ちょうど良いのかもしれません。

 

以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第21回】森博嗣氏著『「やりがいのある仕事」という幻想』とベーシックインカム

前回の読書をとおして、ベーシックインカムについて新しい視点を得たので、これまでのベーシックインカムについての私の意見(第10回第15回参照)をアップデートするべく、記録しておこうと思います。

 

私がベーシックインカムを導入すべきと考える主たる理由は、人は、お金から解放されて、自分のやりたいことをするべき、というものでした。しかし、やりたいことをするといっても、例えばスキーをするにしても、食事をしなければならないし、体調を整えなければならないし、スキー板を担いで山の上まで登らなければならない。仕事をして生活費やスキーグッズ購入費等の必要なお金を稼ぐことも、これらと同じく、やりたいことをするための手段である、と。

 

確かにそう考えることができます。手段である仕事によって自分のやりたいことをする時間が無いことに対しては、通勤時間を減らすことや、必要十分なお金を稼げば良いのでパート勤務をすること等、いかようにも工夫することができます。

 

結局は、自分のやりたいことが何なのかをじっくりと考え、何か面白そうなことがあればやってみる、そのための手段も適宜工夫していく、ということになるのかな、と思いました。以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第20回】森博嗣氏著『「やりがいのある仕事」という幻想』を読んで

前回に引き続き、森博嗣氏の著作です。

 

内容は、本のタイトルのとおりなのですが、「仕事に希望が無く、どうしたらいいですか?」という相談に対し、これは相談でも質問でも無く、自分の現状を分析しているもので、その分析は多分正しい、という回答が印象的でした。問題がどこにあるのかは明らかで、仕事について最初に抱いた希望や夢が、非現実的であったということである、と。人生の生きがいを仕事の中に見つける必要はどこにも無く、好きなことをどこかで見つければ良い、と。

 

著者は、仕事は一日の中でも多くの割合を占めるから、その時間を少しでも楽しみたい、と考えるのは人情である、と、一定の理解を示します。しかし、仕事をするからこそ、お金を稼ぎ自分の好きなことができ、仕事の基本は、「これを我慢すれば、あれができる、あれも買える、あそこへも行ける」という交換である、と。

 

仕事とは、その程度のことのようです。仕事で人間の価値が決まるのではなく、自分がどれだけ納得できるか、自分で自分をどこまで幸せにできるか、ということが、その人の価値である。その価値というのは、自分で評価すれば良い、と。前回でも同様なことを書きましたが、自分の主観的な思い込みにより、自分を追い詰めることの無いようにしたいものだと思いました。

 

最後に、自営業についてです。どんな商売であっても、お金を誰かから受け取らなければならない訳だから、その相手には頭を下げることになる、会社勤めとの差は、あらかじめ賃金が定まっていないという一点だけである、と述べられており、確かにそうだと思います。その上で、自営業は、今のインターネットの時代、特に店舗等のこれまでの形のままでは、店舗はネット販売には敵わないこと等により、以前よりもはるかに難しくなっている、と。

 

個人レベルで世界中とつながり、ほとんど無料で利用できるインターネットにより、メディア(ハード)からコンテンツ(ソフト)へ、メジャーからマイナーへ、ジェネラルからスペシャルへ、という大きな変化が、今後も進行することが予想される、と。有資格業であるからといって、専門性があるから安泰だとあぐらをかかずに、社会は今後どうなっていくのかという意識を持って、生きていきたいものです。

 

今回も学びのある良い読書でした。以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第19回】森博嗣氏著「孤独の価値」を読んで

最近、自分は孤独であると漠然とした不安を抱えることが増えていたので、孤独とは何かということを正確に把握したいと思い、本書を読んでみました。

 

孤独が現れるのは、孤独ではない状態からの陥落である、と述べられていて、仕事についても友人関係についても、確かにそうだな、と。楽しさと寂しさというのは、光と影であって、どちらかだけが存在するものでは無く、サインカーブのようなものだ、とあり、自分の視野が狭まっていたことに気付かされました。

 

そして、孤独や寂しさを感じた時、自分がどんな「楽しさ」を失ったのか、また、その「楽しさ」はそもそも実在したものなのか、と考えてみることが重要である、と。考えることは、基本的に自身を救うとのことですが、これには私も同意します。一人で考えるのも良いでしょうが、読書をすると、本書のように、自分には無かった新しい視点をもらえ、その対象についてより深く考えることができるようになります。

 

また、サインカーブを用いた説明の中で、人は、どん底の状態、つまり最も努力をする時ではなく、それに勢い良く向かっている時に、最も寂しさを感じるが、それはその後に力を消費する(努力する)ことへの恐怖であり、結局は疲労や面倒といった「嫌な予感」、すなわち「死への予感」に過ぎない、と。私は、この理系の方らしい考え方に対し、妄想であると一蹴することができない真実味のようなものを感じました。

 

また、孤独を悪であると判断してしまう理由について、人間が持っている本能を利用して、ドラマやアニメ等の多くのエンターテインメントにおいて、仲間の大切さを誇大に扱う傾向があり、孤独が非常に苦しいものだという感覚を受け手に植え付けている、そして、メディアに流れる虚構が一辺倒である、と考察されています。確かに、たとえば数学の問題を解くことが何よりも大事だという人生もあって良いはずであり、鋭い指摘であると思いました。

 

また、仕事にやりがいを見つけることや、楽しい職場で働くことが、人生のあるべき姿だ、というのも作られた虚構であり、それを真に受けて、現実とのギャップに悩む人が増えている、仕事は本来辛いものであり、辛いからその報酬としてお金が稼げる、と。確かに、商業的な宣伝で作られた虚構は、至るところにあり、不必要に踊らされないことが重要であると思いました。

 

また、孤独の受け入れ方について、本当に孤立してしまうような恐ろしい状態の孤独と、静かで落ち着いた雰囲気で創作にも適する孤独とは、現実の状態としては大きくは異ならず、主観的な認識の違いに過ぎない、とのことでした。そして、一番簡単な創作として詩作が勧められていたので、詩を一つ作ってみようと思います。

 

まあ、落ち着きなさいよ

結局、お金の多寡の問題に過ぎない

まあ、落ち着きなさいよ

結局、慣例的に処理されているに過ぎない

 

自分を追い詰めているのは

ほかならぬ自分自身

知らず知らずのうちに一面的な見方になっていたことに

気付くだろう

 

初めての作品にしては、上出来だと思いました。

 

そして、一番大切なことは、自分がやりたいことをすることである、と。やりたいことをじっくりと考える。もっとも、だらだらとさぼっていたい、では、やりたいことが無い状態であって、人間としては死の次に悪い状態、生きているうちでは最悪の状態である、と。

 

それがなかなか分からないんですけどね。できることとしては、気になったことに挑戦してみることくらいなのかな、と。そして、自分がやりたいことが何なのかを考えることすらも、楽しいと感じる姿勢が重要なのだと思いました。

 

総じて、新しい視点をもらった、良い本でした。以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第18回】ゼロサムゲームとノンゼロサムゲーム

第17回のブログを書いた後、ゼロサムゲームとノンゼロサムゲームについて考えてみました。

 

ドーキンス氏が述べていた、離婚裁判と弁護士費用の例は、一見ゼロサムゲームのように見えるものを、双方の弁護士が胴元である囚人のジレンマゲーム(ノンゼロサムゲーム)と見て、双方が「協力」を選択することでより良い結果を得ることができた(が、実際にはできなかった)例といえそうです。

 

そして、このような例は、現実のいたるところにあるのかもしれません。いつも、囚人のジレンマゲームでいうところの胴元という存在がいるとは限りませんが、双方が「背信」では無く「協力」を選択することでより良い結果を得ることができる場合です。

 

我々は、どのような時に、より良い結果を得るために「背信」では無く「協力」を選択することができるのでしょうか。

 

これは、離婚裁判と弁護士費用の例で言えば子供の将来等、プレイヤー双方が、不安や怒り等の自分の感情に惑わされること無く、自分にとって本当に大切なものは何なのかを、冷静に見定めた時ということなのかな、と。

 

もののけ姫」のアシタカも、「曇りなき眼で見定める」と言っていますから。

 

以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第17回】リチャード・ドーキンス氏著「利己的な遺伝子」を読んで

私は、進化生物学等は完全に専門外の素人ですが、YouTubeのどなたかの動画で見て、気になったので、読んでみました。

 

1 遺伝子の生存機械

私は、大勢の日本人の方々と同様に、信仰深い人間ではありませんから、神がこの世界を作ったのではなく、この世界は自然淘汰による進化の結果であるというダーウィニズムについては、すんなり受け入れることができます。

 

その上で、自然淘汰の単位は、ドーキンス氏いわく、種でも群れでも個体でも無く、遺伝子である、と。確かに、個体というのは、はかない存在です。配られてまもないトランプの手(例えば、「大富豪」等。)のように、まもなく混ぜられて忘れ去られるが、カード自体は混ぜられても生き残り、このカードが遺伝子である、という比喩は、分かりやすかったです。

 

そして、我々個体は遺伝子の生存機械である、という論旨につながっていきます。

 

2 自己複製子である遺伝子やミームと、我々

ここまでも十分興味深い内容ですが、人間をめぐる特異性、すなわち文化について議論を発展させており、より興味深く感じました。ドーキンス氏は、これを「ミーム」と名付けました。我々が死後残せるものは、遺伝子のみならず、ミームも残せる、と。

 

別に、遺伝子は、何か人格のようなものを持っている訳ではなくただ何十億年も前から生き残ってきただけですから、我々が敵視すべきものなどでは無いです。もっとも、我々人間には、意識的に先見する能力—―想像力を駆使して将来の事態をシミュレートする能力—―という独自の特性がある、と。これは、意識を持たないやみくもな自己複製子である遺伝子やミームには、ありません。我々は、遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきたが、我々にはこれらの創造者に刃向かう上記能力があり、この地球上で唯一我々だけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる(純粋で私欲の無い利他主義を育むことができる)、と。

 

念のために付け加えると、遺伝的決定論と自由意志論は、両立しますね。例えば、人間の性欲は自然淘汰によって進化したものであり、我々には性欲に影響する遺伝子が存在しますが、社会的にその必要がある時には性欲の抑制に何の困難もありませんから。

 

最終的には、我々人間に向けた、なかなかに希望的なメッセージでした。

 

3 囚人のジレンマ

それと、意外にも、本書を通して、囚人のジレンマについて、勉強することができました。囚人のジレンマは、以下のような条件を満たすもので、自然界でもたくさんの例があるそうです。

 

背信・協力 → 非常に良い報酬

協力・協力 → そこそこ良い報酬

背信背信 → そこそこ悪い罰金

協力・背信 → 非常に悪い罰金

 

そして、なぜジレンマなのかというと、1回きりのゲームを行うと、相手が協力を選択しようが背信を選択しようが、自分は背信を選択することが最善となり、このことは相手も同様であり、結果として互いに背信を選択して「そこそこ悪い罰金」を負うことになり、互いに協力を選択した場合の「そこそこ良い報酬」を得られないからです。

 

しかし、コンピューター・シミュレーションで「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施すると、最も好成績を収めたのは、「やられたらやり返す」戦略だったとのことで、興味深いです。これは、自分から先には決して背信しないという「気のいい」戦略であり、背信者に対しては即座に報復しますが、その後は過去を水に流すという「寛容」戦略です。また、これは、絶対的に多額の金額を胴元からせしめることよりも、相手のプレイヤーより多くの金額を得ようとするという「妬み屋」戦略ではありません。

 

ゲームには、ゼロサムゲームとノンゼロサムゲームがありますが、「反復囚人のジレンマ」ゲームはノンゼロサムゲームです。胴元がおり、二人のプレイヤーは手を組んで終始胴元をコケにし続けることが、理論上は可能です。しかし、現実の人間の間で「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施すると、ほとんどのプレイヤーは妬みの誘惑に屈し、そのため相対的に乏しい金額しか得られません。

 

また、現実には、ゼロサムゲームのように見えるものを、ノンゼロサムゲームに変えることが、可能な場合もあるのかもしれません。離婚裁判と弁護士費用の例は、興味深かったです。不幸な夫婦は、双方の弁護士が利益を得るゼロサムゲームへと、引きずり込まれてしまいました。その弁護士費用は、子供の将来等のために使うことができたのに。念のために付け加えると、ゼロサム的な戦いをしようといらだつ依頼人に、法廷外でノンゼロサム的な解決にたどり着いた方が良いですよと説得する、善意の弁護士もいます。

 

我々は、人生のどの側面をゼロサム的なものあるいはノンゼロサム的なものと考えるのでしょうか。人生のどの側面が「妬み」を育み、どの側面が「胴元に対抗する協力」を育むのでしょうか。ドーキンス氏も難問であると述べていますが、難問です。

 

以上、読んでいただき、ありがとうございました。

【第16回】富士山に登ってきました

練習登山も済んだということで(第14回参照)、さっそく、1泊2日の富士山登山(吉田ルート)に行ってきました。

 

頭痛等の高山病になることも無く、山頂でご来光を拝むことができたので、大まかには上手くいったと思います。しかし、実際に富士山登山をすることで分かった改善点もあったので、また富士山に登ることがあれば、より良い登山になるように、今回の富士山登山について記録しておこうと思います。

 

1 天候

天候は、両日ともに台風の影響で霧が深く真っ白で、景色を楽しみながら登山できる感じでは無かったです。台風は、まだ大分南の方だったのですが、風が流れてきて富士山の天候に影響が出てくるとのことでした。2日目は、山頂付近であったこともあり、雷雨が大変でした。以上から、天候的には、難易度が高めの富士山登山であったように思います。

 

2 1日目

1日目は、8合目の山小屋「太子館」までひたすら登っていきました。スタート地点付近で、富士山登山回数60回以上の方と3回目の方の、初老の男性2名に声をかけられ、その方々と山小屋まで一緒に登ることになりました。そこで、歩幅を小さくすることやなるべく高低差の少ないコースを選ぶこと、「ふー」と息を吐く呼吸法、水分・カロリー・糖分・塩分のこまめな摂取等の、疲労がたまりにくく、高山病にもなりにくいポイントを教えてもらいました。

 

こまめな水分補給とは、頻度を増やすことはもちろんですが、一度の補給量を少なくすることも重要なようです。山小屋で500mlペットボトル1本をもらえますので、富士山に持参する飲料は、500mlペットボトル1本で十分でした。上記のような登山のポイントを実践することで、あまり疲労を感じることなく山小屋に到着することができ、一緒に登ってきた2名とお別れし、1日目は極めて順調でした。

 

3 2日目

2日目、ご来光を見るために深夜に山小屋を出発しました。山小屋「御来光館」までは順調に登ることができ、そこで雨宿りや日の出時間との調整も兼ねて1時間ほど待機して、山頂までの登山を再開しました。

 

山頂までの道中、ヘッドライトの充電が切れ、前後の登山者のライトを頼りにして登ることを余儀なくされ、不便でした。山小屋の中ではスマホのライト機能で乗り切り、ヘッドライトはフル充電の状態で出発すれば良かったと後悔しました。

 

また、雷雨により、登山服を着ていたものの、雨が顔面から服の中に浸透し、防寒服として着ていたフリースの意味が無いくらい寒かったです。山は天候が崩れやすいので、今回のような台風の影響等が無い場合にも、雨から顔面をしっかり守ることができ雨が服の中に浸透しない登山服等、より効果的な防雨・防寒をしなければならないと思いました。

 

また、登山服だけでは下が寒かったので、防寒服のみならず防寒ズボンも用意すれば良かったと後悔しました。

 

何とか山頂に到着し、ご来光を見て、富士山の火口を一周するお鉢巡りをして、下山することにしました。

 

4 下山

下山中、下山のペースが速かったせいか、日頃運動をしていないにもかかわらず富士山登山を強行したことが祟ったか、その両方か分かりませんが、右足首を痛めて、相当ゆっくりのペースでなければ歩けない状態になりました。そこで、馬に乗れる場所まで何とか下山して、2万円の大金をはたいて(無理して歩くと重症化するリスクもありますし、肉体的苦痛を和らげることの方が重要です。)、乗馬して5合目まで戻りました。

 

富士山登山で、乗馬を初めて体験することになるとは、思いもよりませんでしたが、乗り心地は、良いとはいえないですね。数百年前、人類が、馬に乗って草原を駆けたり、馬上で敵と切り合ったりしていたことが、信じられないです。人類が自動車を発明したことは、偉大な発明だったということで。

 

5 次回の富士山登山に向けた改善点

・雨から顔面をしっかり守ることができ雨が服の中に浸透しない登山服等、より効果的な防雨・防寒をする

・防寒服のみならず防寒ズボンも用意する

・下山のペースを緩やかにしたり、日頃運動をしたりし、下山中に足を痛めることの無いように注意する

 

こんなところでしょうか。ひとまず、無事帰宅することができて良かったです。

 

6 人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし

第14回の登山も今回の富士山登山も、登山をしていると物理的に重い荷を背負って遠い道を行くことになるからか、徳川家康の遺訓「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。」がよく頭の中を巡ります。以下全文を引用します。

 

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え。
勝つ事ばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる。
おのれを責めて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。」

 

引用元:http://www.edu-konan.jp/ishibe-jh/ikiruhint/tokugawa.html

 

私は、自分のやりたいことがあれば、人生の時間は限られているので、フットワークを軽くして挑戦してみるべき、と日頃考えています。この考え方は、忍耐の重要性を説く上記遺訓とは反するのかもしれません。

 

休職中の身の上ですが、自分がこれからどうするべきか、簡単に答えは分かりません。富士山に登頂したからといって、すぐに答えが分かるというものではありませんでした。しかし、それでも道は眼前に続いている、と。どうも、私ができることは、自分の人生を後悔無く全うすることだけのようです。

 

以上、読んでいただき、ありがとうございました。