itimoのブログ

有資格業。自分の人生の迷走を記録します。

【第17回】リチャード・ドーキンス氏著「利己的な遺伝子」を読んで

私は、進化生物学等は完全に専門外の素人ですが、YouTubeのどなたかの動画で見て、気になったので、読んでみました。

 

1 遺伝子の生存機械

私は、大勢の日本人の方々と同様に、信仰深い人間ではありませんから、神がこの世界を作ったのではなく、この世界は自然淘汰による進化の結果であるというダーウィニズムについては、すんなり受け入れることができます。

 

その上で、自然淘汰の単位は、ドーキンス氏いわく、種でも群れでも個体でも無く、遺伝子である、と。確かに、個体というのは、はかない存在です。配られてまもないトランプの手(例えば、「大富豪」等。)のように、まもなく混ぜられて忘れ去られるが、カード自体は混ぜられても生き残り、このカードが遺伝子である、という比喩は、分かりやすかったです。

 

そして、我々個体は遺伝子の生存機械である、という論旨につながっていきます。

 

2 自己複製子である遺伝子やミームと、我々

ここまでも十分興味深い内容ですが、人間をめぐる特異性、すなわち文化について議論を発展させており、より興味深く感じました。ドーキンス氏は、これを「ミーム」と名付けました。我々が死後残せるものは、遺伝子のみならず、ミームも残せる、と。

 

別に、遺伝子は、何か人格のようなものを持っている訳ではなくただ何十億年も前から生き残ってきただけですから、我々が敵視すべきものなどでは無いです。もっとも、我々人間には、意識的に先見する能力—―想像力を駆使して将来の事態をシミュレートする能力—―という独自の特性がある、と。これは、意識を持たないやみくもな自己複製子である遺伝子やミームには、ありません。我々は、遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきたが、我々にはこれらの創造者に刃向かう上記能力があり、この地球上で唯一我々だけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる(純粋で私欲の無い利他主義を育むことができる)、と。

 

念のために付け加えると、遺伝的決定論と自由意志論は、両立しますね。例えば、人間の性欲は自然淘汰によって進化したものであり、我々には性欲に影響する遺伝子が存在しますが、社会的にその必要がある時には性欲の抑制に何の困難もありませんから。

 

最終的には、我々人間に向けた、なかなかに希望的なメッセージでした。

 

3 囚人のジレンマ

それと、意外にも、本書を通して、囚人のジレンマについて、勉強することができました。囚人のジレンマは、以下のような条件を満たすもので、自然界でもたくさんの例があるそうです。

 

背信・協力 → 非常に良い報酬

協力・協力 → そこそこ良い報酬

背信背信 → そこそこ悪い罰金

協力・背信 → 非常に悪い罰金

 

そして、なぜジレンマなのかというと、1回きりのゲームを行うと、相手が協力を選択しようが背信を選択しようが、自分は背信を選択することが最善となり、このことは相手も同様であり、結果として互いに背信を選択して「そこそこ悪い罰金」を負うことになり、互いに協力を選択した場合の「そこそこ良い報酬」を得られないからです。

 

しかし、コンピューター・シミュレーションで「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施すると、最も好成績を収めたのは、「やられたらやり返す」戦略だったとのことで、興味深いです。これは、自分から先には決して背信しないという「気のいい」戦略であり、背信者に対しては即座に報復しますが、その後は過去を水に流すという「寛容」戦略です。また、これは、絶対的に多額の金額を胴元からせしめることよりも、相手のプレイヤーより多くの金額を得ようとするという「妬み屋」戦略ではありません。

 

ゲームには、ゼロサムゲームとノンゼロサムゲームがありますが、「反復囚人のジレンマ」ゲームはノンゼロサムゲームです。胴元がおり、二人のプレイヤーは手を組んで終始胴元をコケにし続けることが、理論上は可能です。しかし、現実の人間の間で「反復囚人のジレンマ」ゲームを実施すると、ほとんどのプレイヤーは妬みの誘惑に屈し、そのため相対的に乏しい金額しか得られません。

 

また、現実には、ゼロサムゲームのように見えるものを、ノンゼロサムゲームに変えることが、可能な場合もあるのかもしれません。離婚裁判と弁護士費用の例は、興味深かったです。不幸な夫婦は、双方の弁護士が利益を得るゼロサムゲームへと、引きずり込まれてしまいました。その弁護士費用は、子供の将来等のために使うことができたのに。念のために付け加えると、ゼロサム的な戦いをしようといらだつ依頼人に、法廷外でノンゼロサム的な解決にたどり着いた方が良いですよと説得する、善意の弁護士もいます。

 

我々は、人生のどの側面をゼロサム的なものあるいはノンゼロサム的なものと考えるのでしょうか。人生のどの側面が「妬み」を育み、どの側面が「胴元に対抗する協力」を育むのでしょうか。ドーキンス氏も難問であると述べていますが、難問です。

 

以上、読んでいただき、ありがとうございました。