itimoのブログ

有資格業。自分の人生の迷走を記録します。

【第29回】アニメ「進撃の巨人」を鑑賞して

 ネタバレ有りの内容ですので、未視聴の方はご注意ください。

 

 原作の漫画は読んでいないので、全話、新鮮な気持ちで楽しく視聴することができました。しかし、ただ楽しいだけではなくて、私にとって印象に残る面白さでした。

 

1 エンターテインメントについて

 

 エンターテインメントとは、ビジネス目的に作られていますから、本来、理解しやすい、共感しやすいように作られているものと思われます。しかし、本作は、登場人物が多いですし、内容も入り組んでいますし、理解しやすい作品とはいえなそうです。また、視聴者に好かれていそうなキャラクターが大勢命を落としていき、視聴者にこびている様子も見受けられません。

 

 そうであるのに、引き込まれる作品であり、衝撃を受けました。

 

2 決定論の世界について

 

 本作の特徴的な世界観として、エレンが勲章授与式においてヒストリアと接触した時に、彼はその後発生する凄惨な出来事の全てを知り、それらは、いかに手を尽くしても避けられない結末であったということが挙げられます。自由意志論と対をなす、決定論というものです。正確には、「全て」を知ったのではなく、ミカサに殺され、自分の生首にキスをされることを除く全て、ということですが。

 

 エレンの身になると、いかに手を尽くしても、自分が人類の8割の命を奪うという結末を避けられず、その結末に向かって刻一刻と近づいていくことをただ見守ることしかできないことは、耐え難い苦しみであったでしょう。もし、本作の世界観のように、この世界が決定論の世界であり、かつ、その結末が凄惨なものなのであれば、未来を知ることができるという能力は、最も獲得したくない能力ということになります。

 

 全ては、ミカサが残された人類を救うために最愛の人エレンを殺し、その生首にキスをするのを、始祖ユミルが現認すること、ただその一点に突き進んだ、ユミルの民の2000年の歴史ということですが。ミカサのエレンに対する愛の深さが、2000年に一人の逸材であったということでしょうか。

 

3 「自由の奴隷」発言について

 

 それと、エレンとアルミンが精神世界において話をしていた中で、エレンが、自分は「自由の奴隷」だったと述べましたが、この発言には違和感がありました。エレンは、勲章授与式においてヒストリアと接触した時点以降、人類の8割の命が失われる時まで、この決定論の世界においては自由に生きることは不可能なので、そもそも自由という概念が存在せず、その奴隷という概念も存在しないと考えられるからです。

 

 あるいは、自由とは、外部に何らかの影響を及ぼすことではなく、自分の思考の中に存在するものという考え方もあります。囚われていると感じるものの正体は、外部にある他人や社会などではなく、自分の囚われた思考であるという考え方です。これによると、世界が決定論の世界であろうと自由意志論の世界であろうと、関係が無いということになります。与えられた環境下で、自分の最善を尽くす。それができれば、エレンは、決定論の世界においても自由であったといえるでしょう。

 

4 少々の疑問について

 

 エレンは、決定論の世界において、自分の最善を尽くすことができたのでしょうか。エレンとアルミンが精神世界において話をしていた中で、エレンは、アルミンをボコボコに殴ったことやミカサに傷付けるような発言をしたことを後悔している様子でしたが。

 

 人のエンターテインメント作品にケチを付けても仕方がないところですが、少し疑問に思うのは、エレンは、なぜ仲間たちに未来の話やメッセージを伝えた後、律儀にその記憶を消していたのか、ということです。もし、自分がエレンと同じ立場であれば、自分の世界は決定論の世界であり、何をしてもどのみち世界は変わらないわけですから、もっとハチャメチャに行動すると思います。エレンが仲間たちの記憶を消さないことで、アルミン辺りが決定論の世界を出し抜く方法を導き出すことができたかもしれません。

 

 それとも、エレンは一度その方法を試したものの、仲間たちの心労が上がるのみで、決定論の世界を出し抜くには至らず、そうであればせめて仲間たちの心労が無用に上がらないようにするべく、律儀に記憶を消すことにしたのでしょうか。確かに、上記のとおり、決定論の世界において、その結末が凄惨なものなのであれば、未来を知ることができるという能力は、最も獲得したくない能力といえるでしょう。しかし、ミカサやアルミンをはじめとするエレンの仲間たちは、きっと、その最悪の未来の知識さえも、エレンと共有して、エレンと共に決定論の世界を出し抜くべく奮闘することを望んだのではないでしょうか。

 

 エレンが仲間たちの記憶を消すべきであったか、消さないべきであったか、簡単に答えが出る問題ではありませんが、せめて、その選択を仲間たち一人一人に委ねるべきだったのではないでしょうか。当人の意向を踏まえずに記憶操作をするというのは、対等な関係性においては適切とは言い難いです。フリーダがヒストリアの身を案じて毎回自分についての記憶を消していたこととは、訳が違うと思う次第です。

 

5 エンターテインメントから教訓を得ることについて

 

 最後のヒストリアの手紙、戦わないために戦う、ですか。私は、殺人は、戦争であっても正当化することはできないと考えます。良い着地点だと思いました。最初に触れたこととも関連しますが、もし、エンターテインメントから何らかの教訓を得ることを望む場合には、それがビジネス目的に作られていることに鑑み、しっかりと精査、取捨選択したいところです。

 

 以上、読んでいただき、ありがとうございました。